繪日記帳

折りにふれて描き上げた絵画に言葉を添えて少しずつアップしていこうと思っています

自分を見つめて

f:id:tochanboya:20180713160852j:plainF30 キャンバス 油彩

 今日7月13日は私の60回目の誕生日。還暦である。大学の自由課題で進めてきた自画像による「喜怒哀楽」のうち最後になった「哀」が昨夜完成した。制作にあたって重視した還暦前の自分を描きとることは何とかギリギリ間に合ったと言える。

 喜怒哀楽のポーズは全て自分で孤独に撮った。嵐山別宅の和室にスタジオ機材を持ち込みモノブロックのストロボをバンクにして2灯焚きバロック風な光線を当ててみた。大掛かりな自撮りである。1ポースあたり50枚ほど撮っているが、なにせモデルもカメラマンもスポット測光するアシスタントも全て私、しかもシャッターレリーズを持つわけにもいかないのでいちいちタイマー撮影(途中からレリーズボタンを使いタイマー3秒。ボタンを押した途端手を離してポージングという慌ただしさ)。夕方から始めて終わったのは夜も白々明ける頃であった。とにかく描くことのしんどさの何倍ものしんどさであった。

 ただこの全ての制作プロセスのあいだ、自身を見つめ続けたことは貴重な体験だった。物質としての自分。人間としての自分。そして精神としての自分。60年の歳月を経た肉体は死へのベクトル線上をほぼ正確に歩んでいるし、この脳は相変わらず我執に囚われ喜怒哀楽の中に浮き沈みしている。四苦八苦である。

 しかしこうして客観的に自分を観るに何だか微笑みたくなる。曲がりなりにも一所懸命に生きている。一所懸命にもがいている自分を愛おしく思うのだ。

五劫思惟のすえに立てられた弥陀の誓願、その大慈悲に最後はすくいとって頂ける有難さをこのちっぽけな自分を観て感ぜずにはいられない。

久しぶりに水彩画

f:id:tochanboya:20180620151107j:imageF8  アルシュ 水彩

2日前の朝、地震があった。震度6弱

かなり揺れたが幸い何の被害もなかった。だが市内では幼い女の子が犠牲になるという痛ましい悲劇が起こり胸が潰れる思いだ。

絵画はいったい何の役に立つのか。その問いにはすぐに答えられないが、気持ちを安らかにする絵はもしかしたら描けるかも知れない。

そんな思いもあって庭に咲いた薔薇を描いてみた。

黒い絵

f:id:tochanboya:20180615192136j:plain  F30 キャンバスに油彩

 

喜怒哀楽の「楽」が予定よりやや早く仕上がった。やっぱり黒い絵になった。

黒い空間に魅力を感じている。これはバロック絵画の影響というのでもなく私的な嗜好である。「空(くう)」という概念を色彩に表そうとした時、僕は黒を想起するのだ。「空」は無ではない。だから黒は無彩色ではない。「空」は縁起である。だからあらゆる縁起あらゆる色を飲み込んだ色彩が黒だと考えている。自画像の背景には黒以外考えられない。

無量寿経にある阿弥陀の第四の誓願「無有好醜之願」によってそんな「空」の只中で悲哀に佇む醜い私であっても必ず拾い上げてくださることを願ってこの絵を描いた。

自転車操業の日々

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米を作っていると、この田植え時期と秋の収穫時期が忙しい。

その上本業の仕事もあるので絵を描く気力は振り絞らないと出てこない。

だけど、学業はそうも言っておられない。今年中に来年の卒制に入れるだけの単位を取得せねばならずまさに必死のパッチである。そんな中課題で描いている「喜怒哀楽」だがやっと「楽」に取りかかった。「哀」はどこに?ハイまだ描いてません。哀のポージングが難しくてこちらから先に…

やっと白色浮出が粗方終わったところで、これから暗部、背景と攻めてグラッシまで漕ぎ着ける頃はたぶん7月。並行して「哀」の制作にも入りたい。その間にこないだのスクーリングで描いたテーマ「人」のF25号のエスキースが帰宅後気に入らなくなったので破棄、改めてエスキースと下描きをしないといけない。

待てよ、7月はじめに開かれる銀座あひる会への出品するために水彩で一枚描かないと!

自転車操業とはまさにこのことか。田植え早く終わらんかな

どんな表現方法がいいんだ?

f:id:tochanboya:20180503110859j:plain Roberto Ferriを模写 部分(グラッシ前)

 

 

 イタリアルネサンスからバロックあたりが最も裸体が溢れたいたのじゃあるまいか。それまでの中世キリスト教社会で抑圧された人体表現への欲求がこの時代に爆発する。ルネサンスはまさにギリシャ古代ローマへの回帰であり裸の復権、裸を描いて何が悪い!と堂々と言える時代だった。ミケランジェロなんて裸しか表現しなかったくらいだし弟子のヴァザーリに至っては師匠の裸を描く技術(マニエラ)こそ至上のものでそれ以前の作家はそれを知らないからダメだなんて、トンデモな説を言いだす始末。もっともこれが後のマニエリスムになって、今僕らが使う「マンネリ」の起源となったのはご存知の通り。バロックになってカラヴァッジォ、ルーベンスともうそれはそれは裸(に近い)のオンパレード。それほど裸が謳歌した時代。憧れるなぁ。ただ裸と言ってもヌード(堂々とした裸体)でありネイキッド(剥き出しにされた裸体)とは分けておかないとダメだけど。

 バロック時代の画家のように裸を描きたい。写実とは違う。現代日本の写実表現にはあまり関心がない。背景まで描くことじゃなくて主体をはっきりさせたい。ただ…

バロック時代をそのまま真似るのではなく今現代の方法で描きたい。あの技法にマッチする現代の素材を探りたい。

 

自分を演じてみる

f:id:tochanboya:20180414085144j:plain F30 キャンバスに油彩

今、大学の課題作品を描いている。

自由に好きなものを描いて良いらしいので

自画像に取り組んでみた。在学中くらいしか自画像なんか描かんやろうし。

ただ描きたいのは演じる自画像。普通にすました顔は面白くない。

なので感情の基本形「喜怒哀楽」を表現した自分を描く。

まずは「喜」。神の啓示を受けた瞬間、あるいは仏の無碍光に打たれた刹那か!といった感じで口を開いて喜びを爆発させようとしている一瞬。

僕自身の証である天然痘接種の痕、奥歯の金属かぶせも抜かりなく描く。

思えばもう今年還暦だ。六十年の歳月が身体に刻んだ痕はむしろ愛おしいものだ。

 

f:id:tochanboya:20180208003831j:plain F30 キャンバスに油彩

こちらは「怒」。目の前にいる何者かに怒りを爆発させている。

それが何者なのかは僕にもわからないが、自身の鼻持ちならない善人らしさなのかも知れない。

背景の斜光線は幽かな救いの光か。

 

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以前描いたこの赤いシャツの自分は今も金属の球体の中で澄まし顔をしてこちらを向いている。